会話はキャッチボールだったのか

今春、娘が当地で高校に進学して、いまだに標準語のままですが、みんな標準語も話せるバイリンガルなので、それは全く困らないらしいです。

ただ、会話の組み立て方がだいぶ違うので、戸惑うことがあるとか。

そんなことを話してて、東京でフツウにやってた会話の組み立て方が、ちょっと異常だったんじゃないかと思うようになりました。

以前は、何か言いたいことがあると、それをコンパクトにまとめて言い切る。そうすると、相手側もそれに異議がなければ、自分の言いたいことを同じようにコンパクトにまとめて言い切る。こんな感じでした。

マクロに見れば、両者の発言に関連性があるんだけど、直接的なキャッチボール形式になってないのです。

A、B、Cという展開のある話しを、A+B+Cと一気に言い切ってしまう感じ。相手も、それを楽しんで、次に、自分の話に移る。

ずっと疑問に思わなかったのだけど、これってキャッチボールではないですね。お互いにカゴいっぱいにボールを用意しておいて、捕球はせずに順番に投げていく、といった感じ。

順番に話してるので、対話してるように見えるだけ。

お互いの高札に、漢文で布告文を順番に書き込んで行くみたいな、ポキポキしたやりとりなのです。標準語で話していると、そんな無愛想な感じになってしまいます。

ツイートに対して、リプライでなくて、コメント付きのリツイートを重ねていく感じかな。お互いに少し距離をとってますね。


当地では、A+B+Cというハナシをするとき、まずリードとして一方が「A」というと、相手方が流れを読んで「B」と続ける。そのうえで「C」で落ちる、という予定調和のリズム。

これだと、一つの球をキャッチボールしてる感じになりますね。こちらのほうが、会話や対話といった感じになります。

我々が東夷の蛮習で話してしまうと、こちらのみなさんは、「C」を期待しつつ「B」と受けてくれるんです。でも、最初に「A+B+C」って全部喋っちゃってるので、話はそこで終わってて、後は沈黙しかないのです。

そうすると、相手は「オチは、オチ…?」って置いてかれたみたいになってしまうと。

なので、西の方が関東に来ると、だれもハナシを拾わないので、言いたいことが宙に浮いてしまいます。自分で拾うしかありません。ボケとツッコミを独りでやらないといけない感じ。きっとさみしくなるはず。

 

対話を通じて一つのハナシを共同で作り上げていくのは、当地の皆さんには当然でも、東の標準語原人としては、レベル高いなと思うのです。漫才の文化ですね。

標準語だと、対話的な内容であっても、漫談や落語みたいに結局一人で喋ってる。そんな感じのこなれない言葉。明治期にできたばかりのエスペラント人工言語なので、感情の乗らない未熟な段階なんですね。

おそらくは、時代とともに少しずつこなれていって、血の通った母言語に成長していくことでしょう。

でも、その成長を見とどけられない世代の自分には、神戸や大阪の言葉が心地よいです。接客とかでも、あんまり標準語にしないで、って思います。